「読むことは創作活動である」。え、どういうこと??

2015年9月29日火曜日

読書

t f B! P L
おはこんばんちわ、しのジャッキー(@shinojackie)です。

「読むことは創作活動である」

え?どういうこと?って思いますよね。



読むってのは、受動的ではないけどど
あくまで、インプットであって、アウトプットではない。
創作活動といったら、作品を作ったりとか
ものを創りだす活動のはずです。


だのに、作家の北村薫さんは
「読むことは創作活動である」とそう
いうのです。

そんなことが、こちらの本に書かれていました。


「分かる」ってのはそういうことだ。

アマデウスという劇を例に説明されています。
アマデウスはモーツァルトについてのお話なのですが
当時の天才音楽家サリエリが、モーツァルトの音楽を聞いたとき

「こ・こいつにはかなわねぇ!」

ガビーンとショックを受けるシーンがあるそうで

そこで、流れるモーツァルトの曲が
もう、そのときのサリエリのショックを
表現するに最適だと分かる人は分かる。

もうサリエリがショックを受けることが描かれる前に
この曲がかかるだけで、もう感じられる。
と「分かる」人はそれが感じられる。

でも、北村さん自身はそれが「分からない」
でも、「分かる人」は「感じる」
これが、「分かる」ということだと。

それは好みの問題では?

私はクラシックはよく分からないのですが
音楽は好きで、バンドを組んでいたころ
めちゃくちゃ良い曲を見つけて
バンドメンバーに聞かせても誰一人同意してくれない。

そういうとき
「いや~、この曲の良さが分からないなんて、もったいない!」
なんて思ったものです。

そんなの好みの問題じゃん。
たしかにそれまでかもしれない。

読書にしても、ある人にとっては面白くて
ある人には全然響くものがない。
それも好みの問題かもしれない。

でも、こういうとき、読む人によって、そこから感じるものが違う
この「感じる」ことって、読者自身が「創作」している
これに本書では気づかされました。

だから、それが創作活動だと捉えられると
複数の「感じ方」を自分で作ることができるのかもしれない。

雨が降ってきて、傘を持っていない。

「あぁ、濡れて帰って風引いたらやだなぁ、でも傘買うのもったいないな」

という意味づけをするのか

「よし!これを機会に、気になるあの子と相々傘のチャンスをゲットしよう」

という意味づけをするのは、大違いかもしれない。
こんな例えをするなんて、私のキャラにはアンマッチかもしれない

創作の材料は知識と経験?

そして、その創作の材料って、
経験や知識なんだよなぁ、きっと。
なんて、思ったら、先ほどの例はあまり経験や知識
って感じじゃないですなぁ。

では、

例えば、音楽を聴いていて

なーんか、気持ち悪い曲だな。と思った。

で、インタビューを呼んだから、この曲は
4拍子と7拍子が交互にくるようにしつつもキャッチーな曲に仕上げた
って書いてあったと

で、拍をとりながら聴いてみる。

1・2・3・4、1・2・3・4・5・6・7、1・2・3・4、1・2・3・4・5・6・7。。。

「オオ、マジか!ホントだ。こんな変なリズムなのに 絶妙にポップ。
 すげー、この緊張感!いやー、よくリズムキープできんな!!神か!!」

みたいに一転、その曲の評価が大変換してしまう。
そんなことがあったりします。ちなみに、これは妄想ですが

経験と知識は両輪

ということで、感性を磨くには、色々なものを経験しよう!
というのとあわせて知識も身に付けていかないと
感性って育たない。

ただ、経験するだけでもダメ
ただ、知識をつけるだけでもダメ

そんな当たり前のことも
本書を読んだときに、
”しめしめ”、おれは「分かる」が「分かる」ぞ
なんて思うとともに、なんかはっきり重みをもったように感じました。

北村薫の創作表現講座
なかなかに面白い一冊でした。


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